アムステルダムの観光名所の一つミュージアム広場(Museumplein)の周りには国立美術館、市立美術館、ゴッホ美術館、音楽堂が広場を囲うように建ち並び、アムステルダムの芸術文化が集中しています。
ミュージアム広場にはI amsterdamのオブジェがあった事で知られており、人気の撮影スポットとなっていました。
(※I amsterdamのオブジェは2019年に撤去されてしまいました。)
ミュージアム広場では年間を通して様々なイベントが催され、冬季のクリスマスマーケットではスケートリンクが仮設され、アムステルダム市民の行楽スポットともなっています。
観光客のみならず、地元の方や周辺住民の集いの場としても賑わうミュージアム広場が造られたのは、今から約140年前のことです。
どのように広場と街が造られてきたのか歴史を調べてみたら、100年以上も名も無い空き地だったことが判明しました。
ミュージアム広場の歴史
ミュージアム広場の始まり
現在の広場がある辺りは19世紀に整備された都市拡張計画区域です。
1883年に開催された万国博覧会の開催地となったのが現在のミュージアム広場がある場所でした。
その後にアムステルダムを代表する3つの芸術文化施設(国立美術館、市立美術館、音楽堂)が広場の周りに建てられ、現在のミュージアム広場一帯の街並みが形成されました。
アムステルダムを代表する3つの芸術文化施設の開館した年
1885年 国立美術館(Rijksmuseum)開館
1888年 市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)開館
1895年 音楽堂(The Royal Concertgebouw)開館
可能性が無限の広場
今でこそアムステルダムを代表する芸術文化施設が集まる広場はミュージアム・プレインと名前がついていますが、100年前にはまだ広場に名前がありませんでした。
1900年頃の広場は、お祭りやデモ活動などと人々が集まる場所しての利用価値が高まります。
オランダを代表する文化施設が集まり、そして多くの人々が集る場所。この土地の可能性は高く評価され、様々な都市開発案が議論されました。
しかしながらこの広場の利用活用方法が多く、可能性が無限とあったため、逆に誰もが納得できる完璧な都市開発案を計画することが難しくなってしまいました。
そして計画案が決定しないまま100年余り経ってしまいます。
3つの文化施設と広場の配置
都市開発計画が難しかったのは3つの文化施設(国立美術館、市立美術館、音楽堂)の建物の配置が原因でした。
それぞれの建物は別々に計画されて建てられたので、音楽堂は広場側を正面に建設されているのに対し、国立美術館と市民美術館は広場側が建物背面になるようにデザインされていました。
すべてを調和する広場のデザインを図ろうと試みると、主要道路とのアクセスが悪くなったりと、うまくいかなかったそうです。
もう広場計画をやめて造園にしちゃおう案もあったようです。しかし豪華な庭園は国家の権力を象徴する意味合いが強く、市民が猛反対した記録が残っています。
三つ巴の権力
また都市開発の議論が一向に進まなかったのには権力が大きく影響していました。
広場を囲うように建てられた3つの文化施設は管轄が異なっていたのです。
- 国が管轄する国立美術館(Rijksmuseum)、
- 自治体が管轄する市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)
- 民間(市民)が管轄する音楽堂(The Royal Concertgebouw)
この3つ文化施設は都市開発上での協調性がありませんでした。
3つ施設の中央に計画された広場は、広場のメインエントランスを決めるだけでも国と自治体と市民の争いのタネとなってしまいます。
国立美術館をメインとするような広場の計画案では市民や自治体から反感を買い、音楽堂をメインに計画すると国や自治体が圧力をかけて、市立美術館をメインにすると今度は国と市民が黙っていませんでした。
当時は首都であるアムステルダムに国王が不在だった事も影響し、絶対的な権力が存在しなかった事も大きく、この三つ巴が解決する方法は導きだされませんでした。
無計画な都市開発
広場の計画は進まないままでしたが、広場周辺は19世紀の都市拡張計画により大きく整備が進みました。
しかしここでも広場の方向性が未決定だったことが足を引っ張ったのか、この広場を中心に東西南北で地域の特徴が分断されてしまいました。
- 北の旧市街、
- 東の労働者居住区、
- 西の高級住宅地区、
- 南の市境(当時のアムステルダム市はまだ小さかった)
広場の四方が異なる特徴で都市開発が進み、ますます広場の方向性が見えなくなってしまいました。
三つ巴の権力と、4方向が異なる地域性を持つこの場所を、全員が納得できるように設計できるデザイナーが現れるまでの100年間、広場の計画は止まったままとなったのです。
100年越しのデザイン
広場の方向性が見えないまま、時には展示会場となり、冬にはスケートリンクが仮設され、戦時中には燃料保管場所になるなどと、広場はその時々の必要性に応じて用途を変える空き地となっていました。
広場のあり方が迷走したままでしたが、アムステルダムを代表する2つの美術館(国立美術館と市立美術館)の隣にはゴッホ美術館も開館(1973年)しました。
そしてついにこの土地にデザインの手が入ったのは1990年代に入ってからとなりました。
デンマークのランドスケープデザイナー・Sven-Ingvar Andersson(スヴェン=イングヴェ・アナセン)が、アムステルダム市より依頼を受け広場の設計が始まりました。
1992年から始まった広場の整備計画は、21世紀目前の1999年についに完成します。
ミュージアム広場は青々とした芝生に覆われ、それぞれの文化施設を直線的につなぐ歩道を他方向に設置することで、表裏の無い全方向に対して開かれた広場へと生まれ変わりました。
集う広場と可能性
広場の地下には巨大な駐車場とスーパーマーケットが設けられ、地上は公園としてもイベント会場としても利用される多用途で自由なスペースとなっています。
一面の芝に寝転がりくつろぐ人や、走りまわる子どもたち、文化施設を往来する観光客、週末のイベントやコンサートなどと、新しく生まれ変わっても多くの人が集い、そして様々な行事に対応できる、かつての空き地の要素を残したまま洗練された広場となっています。
広場には大きなデザインの主張はありませんが、ミュージアム広場の整備により周りの文化施設も正面玄関を広場側に変更するなどと、今ではお互いが協力しあい協調した街づくりを行っています。
利用者の目には映らない部分も含めて秀逸したデザインの広場となっています。
参考文献
日本建築学会計画系論文集 Vol. 71 (2006) No. 607 p. 215-223
アムステルダム,ミュージアム・プレインに見るオランダ19世紀後期ヨーロッパ近代首都としてのランドスケープ形成に関する考察
田村 望 / 早稲田大学大学院理工学研究科