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【ヨーロッパ史】アンネ・フランク 15年間の短い生涯

オランダの歴史

 

 

アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)

彼女の名前は誰もが一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

第二次世界大戦中、ユダヤ狩りから逃れる隠れ家での生活の日々を日記に書き留めた少女アンネ・フランク。

アンネの死後に父オットーが出版したアンネの日記には、アムステルダムで隠れ住んでいた2年間の日々が綴られています。

そしてアムステルダムにある博物館アンネ・フランクの家は、アンネが家族とともに2年間も隠れ住んでいた家の跡地で現在はミュージアムとして一般公開されています。

 

 

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博物館アンネ・フランクの家では、アンネの日記の実物から、彼女の写真、実際に隠れ住んでいた家の一部が公開されており、歴史の真実を知るために、またアンネを追悼するために毎年世界中から100万人もの観光客が訪れています。

 

博物館へと足を運ぶ前にアンネがどのような人生を送ったのかを知っておくと、より深く、また新しい視点から負の歴史を垣間見れると思います。アンネの生涯をまとめてみたので事前学習の参考にしてみてください。

 

 

アンネ・フランクの生涯

アンネは13歳からの2年間を隠れて暮らし、生前最後の半年間はホロコースト(強制収容所)での厳しい生活を虐げられ、最後は誰にも看取られずに15歳の時に伝染病で命を落としました。

そんなアンネの生涯を今週は学んでみました。

 

オランダへの亡命

ユダヤ系ドイツ人の両親と3歳年上の姉と4人家族だったアンネ・フランクはドイツ西部の街アーヘンの有名な資産家の次女として1929年の6月に誕生しました。

1933年にヒトラーがナチ党党首に任命されると、これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちは次々とドイツ国外へ亡命します。

ヒトラー党首就任から半年後、アンネの父オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に寛容であったことなどを考慮してアムステルダムへと亡命します。

父オットーが先行して移住し、住居を見つけ仕事を軌道に乗せ、それから半年後の1934年にフランク家はオランダへと移住しました。

 

 

アンネが5歳の時に故郷ドイツを離れ、オランダのアムステルダム・ザウド地区へと家族で移り住みます。

ザウド地区は当時開発中で、ドイツから亡命したユダヤ人が多く集まる地域で、アンネが通った小学校のクラスの半分はドイツ系ユダヤ人でした。

アンネは活発な女の子で、学校でも陽気な人気者。友達も多く、特に仲の良かった2人の女の子と「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」との愛称で呼ばれていました。

 

移住してから4年後の1938年には、母の実家であるホーレンダー家の経営会社がドイツ政府の圧力により財産を全て没収され、ホーレンダー家はアメリカへと亡命します。しかしアンネの祖母にあたるローザは高齢のため長旅はできず、アムステルダムのアンネの家へと引っ越してきたことで、5人家族となりました。

アンネはおばーちゃん子だったようで、学校でのこと、友達のことなど楽しい日々の出来事をいつも祖母にお喋りしていたそうです。

 

アムステルダムに移住してからアンネが11歳になる1940年までの6年間は、不安もない平和で幸せな生活が続きました。


<アンネが住んでいたザウド地区のアパートの前にはアンネの像がたてられています。>

 

 

 

ドイツ軍侵攻とオランダの降伏

1939年9月、ドイツ軍がポーランドへと侵攻したことによって開始した第二次世界大戦、オランダは中立を宣言していました。しかしドイツ政府に「オランダ上空を通過するイギリス軍航空機を黙認している」と難癖をつけられ、ドイツ軍がオランダへと侵攻してきます。

1940年5月10日にドイツ軍のオランダ侵攻が始まると、オランダ国内はパニックに陥いりました

5月13日にはオランダ女王や首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡し、翌日の5月14日にロッテルダムは大空襲をうけ、都市が跡形もなくなってしまいます。

 

【オランダ】近代建築都市ロッテルダムができるまでの歴史
ロッテルダムの街並みは近代建築が多く、他の都市のような歴史ある街並みとは異なります。それは第二次世界大戦時にナチス軍により、爆撃をうけて都市のほとんどが消し飛んだためです。空襲の4日後から復興計画をたて凄まじく変貌をとげた街並みはオランダで1番のモダンな近代都市です。

 

ドイツ軍のオランダ侵攻から5日目の5月15日にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印し、これによりオランダ全土はドイツ軍占領地となってしまいます。

 

しかし占領して直ぐには反ユダヤ主義をオランダに持ち込まれることもありませんでした。そのため占領後もそれまでと変わらない日常が続き、アンネの生活に大きな変化はなかったそうです。

親友のハンネ、サンネとも今まで通り遊び、まだ将来への強い不安は感じてはいませんでした。

 

 

 

ドイツ軍占領下の生活

ユダヤ人の迫害が始まったのは翌年の1941年になってからでした。

映画館への立入禁止から始まり、公園、競馬場、プール、保養施設などの公共施設へのユダヤ人の入場は全て禁止されました。

またユダヤ人はユダヤ人学校以外に通うことを禁止する法律が公布され、アンネは転校を余儀なくされました。

 

 

そのまた翌年の1942年に最愛の祖母ローザを癌で亡くし、おばあちゃんっ子だったアンネには悲しみにくれます。

またこの年にはユダヤ人の夜間外出禁止令、そしてユダヤ人が非ユダヤ人を訪問する事、またその逆も禁止され、アンネはユダヤ人の友だちとしか遊ぶことができなくなりました。

 

ユダヤ人学校でも成績が良かったアンネですが、唯一数学のみ赤点をもらい、この年の夏休み明けには追試が待っていました。…しかし夏休みが明けて再び学校へ通学する日が訪れることはありませんでした。

 

 

 

アンネの日記と隠れ家

1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日に父オットーから赤チェックのノートを貰います。このノートが後にアンネの日記と呼ばれる日記の始まりでした。アンネはこの日記帳を「キティー」と名づけ、キティーに手紙を書くという設定にして日々の出来事を綴っています。

 

アンネが日記を書き始めてからひと月も経たない7月5日の事です。姉マルゴーにユダヤ人移民センターへの出頭を命じる召集命令通知がフランク家に届けらます。これはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令でした。

召集命令に応じるのは危険と判断した父オットーは、すぐに潜伏生活を始めることを決意しました。

 

翌7月6日の早朝に8年間住んでいたザウド地区の家を離れ、プリンセン・グラハト通り263番地の隠れ家へと移動します。

プリンセンフラハト通り263番地の隠れ家は現在は博物館アンネ・フランクの家となっていますが、当時は父オットーが経営する会社の建物でした。

 


父オットーはドイツ軍がオランダを占領した1940年には既に会社の経営者をオランダ人の知人の名義に変更し、またオランダでのユダヤ人狩りが始まってからは、いつでも隠れ住めるように、会社の建物の裏にある離れの3階と4階と屋根裏部屋を改築して準備をしていました。

ザウド地区の家を出る時に父オットーは下宿人に宛てて手紙を残し、スイスへ逃れることをほのめかし、フランク家の行方を分からなくなるように工作します。フランク家の突然の失踪は近所の人たちにも知られましたが、召集命令が来たユダヤ人は次々と逃げ出していたので不思議には思われなかったようです。

 

父オットーによる用意周到な隠れ家への引っ越しにより、姉マルゴーの召集命令を回避することができましたが、何も知らされていなかった姉妹は突然に失踪することになり友だちに別れを伝えることも叶いませんでした。

 

 

 

隠れ家の生活

オランダ語版アンネの日記のタイトルにもなったHet Achterhuisは、後ろの家と言う意味があり、アンネの隠れ住んだ家を表しています。

アンネの隠れ家はオランダ家屋独特の造りを活かして、建物の正面からは全く見えない奥の離れの家の上階に設けられました。

隠れ家にはフランク家の4人と、ヘルマン家の3人、11月からはフリッツも加わり計8人が同居していました。

 

本棚の裏に隠された扉から続く、3階と4階と屋根裏部屋の狭いスペースで8人での潜伏生活が約2年間続きました。

反抗期のアンネにとって母親と常に一緒にいることはとても辛く、また他の7人にとっても狭い環境での同居はいざこざが絶えなかったそうです。それでも誕生日やクリスマス、新年にはみんなで食卓を囲み楽しい夜を過ごしたとアンネの日記にも記載されています。

 

隠れ家には厳しいルールがありました。

  • 昼間は静かに過ごすこと
  • カーテンを開けない
  • 水を流す音を最小にする
  • トイレの使用は早朝と夕方以降 など…

 

建前は商社となっている建物なので、数名の従業員は協力者でした。協力者のオランダ人が食料を調達してくれたお陰で、隠れ家から外へ出ることもなく、見つからずに生活を送ることができていました。しかし隠れ家の生活が一年半を過ぎた頃からオランダでは食料が配給制となり、登録されてないユダヤ人分の食料を満足に調達することは困難になり、さらに闇の仕入れルートだった八百屋が逮捕されたため、さらにひもじくなり空腹での喧嘩が絶えなかったそうです。

やがて電力も制限され始め、照明の代わりに蝋燭をつけ、暖房が使用できなくなると重ね着したり、体を動かして暖をとっていました。

 

 

隠れ生活は医者にかかることもできず、アンネがインフルエンザにかかった時は同居人総出で看病し、また近くで空襲があったときは逃げることもできないため、その轟音と恐怖からパニックに陥ったそうです。

 

 

 

逮捕、そして収監

1944年8月4日に密告によりフランク一家及び同居人の8人は逮捕されてしまいます。

何の前触れもなく、その時は突然に訪れました。しかし父オットーがかつてドイツ軍の中尉だったこともあり、逮捕は人道的に行われたそうです。

逮捕後の3日間はアムステルダムの拘置所で過ごします。他のユダヤ人が隠れ住んでいる場所などを追及されますが、隠れ家から一歩も出ていない彼らは情報を持っていませんでした。

 

 

8月8日に8人はオランダ北東部にあるヴェステルボルク収容所へ移送されます。

このヴェステルボルク収容所は、アウシュヴィッツ強制収容所へ移送するまでの一時的な拘留所でした。そのため強制収容所と比べると比較的自由に行動することが許されており、収容所内には学校や孤児院、医療施設、宗教施設、娯楽施設、スポーツ施設なども存在していました。

しかし8人は「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、政治犯としての懲罰棟に収容されました。懲罰棟に収容される者は自由が大幅に制限され、さらに男性は丸刈り、女性は短髪と定められており、アンネも髪を切られたとされてされています。

アンネは母と姉とともに電池の分解作業に割り当てられ、昼食はわずかなパンと水っぽいスープだけの生活を1ヶ月ほど送ります。

 

9月3日にアウシュヴィッツ強制収容所へ向けて出発する移送列車に8人は乗せられます。3日後にアウシュヴィッツ強制収容所へと到着すると同時に男女が別々に収容され、アンネはここで大好きだった父オットーと今生の別れとなりました。

アウシュヴィッツでは男女ともに丸刈りにされ、左腕には囚人ナンバーの入れ墨を入れられます。

環境の悪い中でもアンネの母は娘たちに献身的につくし、自分に支給されたパンも娘たちに分け与えていたそうです。

 

 

10月28日に姉マルゴーとアンネは、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所への移送が決まり、母と最後の別れを迎えます。姉妹2人、裸で丸坊主という姿でしたが、背筋をピンと伸ばし母の元を去っていったそうです。

 

 

 

姉妹の最後

ドイツへの移送は4日に及び、その間、食料はほとんど与えられず、アンネたちはますます衰弱しました。

到着したベルゲン・ベルゼン強制収容所は最悪な衛生環境下で伝染病が大流行しており、そのうえ食料もほとんど与えられず、多くの人が餓死か病死で亡くなる収容所でした。

そんな中でもアンネにとって嬉しいこともありました。2年前に別れも言えずに離れ離れになった親友ハンネとの再会です。有刺鉄線越しに涙の再会を果たしたそうです。

親友ハンネはその後も数回ほどアンネに会うことができ、話しをしました。ハンネは運よく戦後まで生還したためアンネの最後を知っており、アンネの最後を後世へと伝える一人となっています。

 

 

ベルゲン・ベルゼン強制収容所に収容されて4ヶ月、1945年2月以降の姉妹の消息ははっきりとはしておらず、体力の衰えた2人はチフスにかかり、先に姉マルゴーが息を引き取り、2〜3日遅れてアンネが亡くなったと云われています。正確な日付は分からず、2月の終わりか3月の始めごろだったと推測されています。

 

 

戦後

アンネの母はアウシュビッツ強制収容所にて命を落とし、一緒に隠れすんでいた8人の中で終戦を生きて迎えられたのは父オットーだけでした。

父オットーは解放後にアムステルダムへと戻り、アンネの日記を見つけて保管していてくれてた知人から遺品として渡されます。

その後に父オットーによって書籍化され、ごく少数の者に配られたのが評判を呼び、1947年にHet Achterhuisというタイトルでオランダ語の初版のアンネの日記が出版されました。

1950年にはドイツ語版とフランス語版、1952年に英語版、日本語版が出版されています。

1955年に舞台化、1957年に映画化され、1960年にはプリンセン・グラハト263番地が博物館「アンネ・フランクの家」として一般公開されました。

 

 

戦後にドイツの惨殺行為は世界的に問題になりました。そんな中で出版されたHet Achterhuis(初代アンネの日記)は、ホロコースト否認論者からは「偽物だ」「アンネは存在しなかった」「捏造だ」と言われ、父オットーは訴訟をおこしています。

裁判沙汰は晩年まで続き、父オットーの死後も日記が本物かの科学的調査が行われました。もちろんアンネ・フランクは存在し、アンネの日記は本物であると科学的に証明され、2009年にはユネスコの世界記憶遺産に「アンネの日記(Diary of Anne Frank)」が登録されています。

 

 

あとがき

中学生の頃にアンネの日記を読みました。当時は彼女の生活を垣間見てハツラツとしたエネルギーを感じ、アンネは明るい女の子との印象を受けました。

子供時代にはまだ戦争・ユダヤ・迫害・ホロコーストなどのワードにはピンとこず、遠い昔の物語として受け止めて、実際に隠れ住んでいた様子をリアルに想像することはできておらず、楽しかった出来事、家族との喧嘩、恋の話、悩みや希望などと一人の少女の手紙として読んでいたんだと思います。

少女のリアルな感情を綴った書籍であるだけに、彼女の生涯を知ってから読み返すと、感じ方が大きく異なってきます。

 

アンネ・フランクという少女がいたこと、戦争下でも希望を失わずに生きていたこと、死ぬ間際まで友人を笑わせていた彼女の明るい性格。

書籍「アンネの日記」から、また博物館「アンネ・フランクの家」ではより知ることができます。

お時間があったら読んでみて、博物館にも訪れてみてください。

 


アンネの日記 増補新訂版


博物館アンネ・フランクの家
Anne Frank Huis 概要(2021年8月現在)
※ロックダウン中は閉館しています
営業時間:9〜17時
料金:€14
ミュージアムカード:€1
詳細:要事前予約
住所:Westermarkt 20, 1016 GV Amsterdam
URL:https://www.annefrank.org/nl/

 


アンネ・フランクの像
Sculpture of Anne Frank 概要(2022年1月現在)
住所:Merwedeplein, 1078 DG Amsterdam

 

 

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