ドイツの首都ベルリンから北に約35kmのところにあるザクセンハウゼン強制収容所は現在は追悼博物館となっており、戦時中にどのような状況だったのか、ホロコーストの悲劇を後世にも伝えるべく残されています。
ベルリンから電車で約1時間と訪れやすい強制収容所跡地の博物館です。
筆者がザクセンハウゼン追悼博物館へと訪れたのは10年も前のことなので、今との違いはあるかもしれませんが、強制収容所がどのような施設なのかを写真と一緒にご紹介したいと思います。
ザクセンハウゼン強制収容所
概要
<門の文字Arbeit Macht Frei(働いて自由に)>
ザクセンハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Sachsenhausen)は1936年に設立した強制収容所で、正式なドイツ軍事組織の親衛隊(SS)が管理する最初の強制収容所でもありました。
※ドイツで初めて設置されたオラニエンブルク強制収容所は準軍事組織の監理下でした。
ザクセンハウゼン強制収容所の隣りには軍の訓練場と強制収容所総監本部があり、ヨーロッパ中のナチ強制収容所の監督がここで行われ、各収容所で囚人から奪った金品が集められる保管庫にもなっていました。
設置当初は2300人の囚人が収容されていましたが、戦争が始まると政治犯やジプシー、そしてユダヤ人も収容されるようになり、大戦末期には4万7000人以上の収容人数だったそうです。1936年から戦争が終わる1945年までの9年間に総計20万人を超える人々がザクセンハウゼン強制収容所へと送り込まれたと記録が残っています。
収容所の敷地と建物
ザクセンハウゼン強制収容所は一辺が600mの二等辺三角形型の敷地形状が特徴的です。総面積190ヘクタール(TDL約4個分)の広大な広さで、周囲は高電圧の鉄線と柵、さらに2.7mの高さの壁で囲まれていました。
有刺鉄線と壁の間に2mほどの看守だけが通れる巡視路があり、さらにサーチライトと機関銃が備わった監視塔も多数設置されていました。
犠牲者
ザクセンハウゼン強制収容所の収容者の多くは飢餓、病気、強制労働、人体実験、虐待で亡くなっています。
1941年には13000人の捕虜が銃や毒ガスで殺害されました。
毒物や病原菌を投与される人体実験も行われ、多くの子供たちがB型肝炎ウィルスに感染させられるなどの実験体にされています。
反抗的な態度をとったり失態をおかした囚人には罰が与えられ、処刑が決まった囚人は全員が集まる夕方の点呼の時に公開絞首刑に処され見せしめにされました。
<人体実験室>
敷地内には公にされていない処刑場「Z施設」が存在し、秘密裏の処刑・虐殺・人体実験も行われていました。Z施設にはガス室も設置され一酸化炭素や青酸ガスにより多くの囚人が殺害されています。
ガス室は11㎡の狭い空間に一度に最大60人が押し込まれて殺されることもあったようです。
死の行進と解放
<追悼碑>
1945年、ソビエト軍の侵攻が進むとドイツ軍はザクセンハウゼン強制収容所の撤退することになります。
収容者のうち病気などで移動ができない者は置き去りにされ、動ける33000人が別の収容所に向かって行進させられます。
3万人の大移動は満足な食料も配給されずに毎日20〜40 kmの距離を歩かされました。多くの人が疲労、寒さ、飢え、または無法な虐殺で命を落とすTODESMARSCH(死の行進)と呼ばれる悲劇となりました。
一方、置き去りにされた3000人はソビエト軍により解放されましたが、そのうちの300人は解放される前に病気などで亡くなってしまったそうです。
戦後
<記念博物館正面入口>
終戦後、ザクセンハウゼン強制収容所はソ連占領下の特設収容所となりました。
1945〜1950年の5年間で合計約6万人の人々が収容され、そのうち少なくとも1万2千人が栄養不良や病気で亡くなりました。
収容所としての役目を終え、1961年にザクセンハウゼン国立警告記念施設として開館し、1993年にザクセンハウゼン追悼博物館と名称を変更し、ナチスの強制収容所時代の遺産の保存に重点を置いた博物館として一般公開されています。
正直、見学に行って楽しい場所ではありません。言葉にはならない感情で胸が締め付けられるような場所です。ベルリンから電車で約1時間と訪れやすい強制収容所跡地の博物館ですので興味があったら足を運んでみてください。
関連情報
映画「縞模様のパジャマの少年」
第2時世界大戦のドイツを舞台に、昇進した軍人の父の転勤でユダヤ人収容所の近くに越した8歳の少年ブルーノと、強制収容所に収容されているユダヤ人の子供シュムールとの悲しい友情を描かれた物語です。悲劇中の悲劇で、最後は絶句してしまいます。
ザクセンハウゼン追悼博物館へと訪れる前の事前知識としてもお勧めの映画なのでご紹介です。