前回は「ユダ」の起源から13世紀頃までの「ユダヤ」の歴史をまとめました。
前回のあらすじ…
紀元130年頃にローマ帝国への反乱に失敗したユダヤ人はエルサレムを出禁にされたため世界各国へと移り住むこととなりましたが、新天地でもユダヤ教の信仰を堅持し続けます。
700年頃からは根も葉もない「キリスト殺し」というレッテルを貼られ、住居も職も失いました。起死回生と金貸しを生業としたら大成功したものの、今度は「高利貸し」の代名詞がつき、嫉妬と妬みから更なる迫害を受ける事になってしまったユダヤ人。
13世紀頃には、キリスト教徒とユダヤ教徒との交際が禁止されるなど、ユダヤ人への迫害は一層強まり、社会不安が高まるごとにユダヤ人は迫害の対象とされてきました…。
迫害とホロコースト
前回はユダヤの始まりを中心に学んだので、今回はヨーロッパに散らばって移住したユダヤ人がどのような生活を虐げられてきたのか、18世紀〜現在までの歴史をまとめました。
18世紀 ロシア帝国とユダヤ人
1786年にロシアはユダヤ教徒居住区をロシア西部の一部地域に制限し、ユダヤ人の住居エリアや職種に制限を課しました。ユダヤ人の商人は非ユダヤ教徒居住区で商売をすることができなくなり、経済的に貧困せざるおえませんでした。
ロシア帝国が東欧へと侵攻し、1795年にポーランドが消滅した事により、ポーランドに住んでいたユダヤ人もユダヤ教徒居住区の居住と職種に制限を課されることになってしまいます。ポーランドの庇護を失ったユダヤ人はハプスブルク家(ドイツ貴族)へと救済を求めましたが、その行動は裏切り行為と受け取らてしまいました。
19世紀 ドイツとユダヤ人
1811年、ナポレオン法典をもとにフランクフルト在住のユダヤ人はようやく市民権を得る事ができます。がしかし、僅か3年後の1814年にナポレオン敗退とともに、ユダヤ人の市民権が再び剥奪さてしまいます。
その後1819年にドイツでポグロムが発生し、1821年にはウクライナでポグロムが起こっています。
再びユダヤ人が正式にドイツ国民としての権利を得たのは57年後の1871年でした。それまでユダヤ人の迫害は続きました。
19世紀 ロシア帝国とユダヤ人
1881年にロシア皇帝のアレクサンドル2世が暗殺されると、帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したため反ユダヤ運動が助長されることになり、ロシアでポグロムが起こりました。そして翌年にはロシアでMay Lawsと呼ばれるユダヤ人への厳しい締めつけの法が施行されます。
1900年代初期にはロシアで度重なるユダヤ人襲撃が発生し、各国でポグロムやユダヤ人襲撃が行われます。このことがきっかけで、ユダヤ人の間で古代に祖先が暮らしていたイスラエルの地に帰還してユダヤ人国家を作ろうとするシオニズム運動が起きます。
20世紀 パレスチナとユダヤ人
1919年にはファイサル・ワイツマン合意(中東問題をめぐる外交政策)がイギリスで調印され、ユダヤ人のパレスチナへの入植が合意されます。約1800年ぶりにユダヤ人はパレスチナの地を踏むことを許されました。
しかしこれがパレスチナでの民族間の長期にわたる戦争の始まりとなります。
ユダヤ人が追放されてからの1800年の間に築いてきたパレスチナの文化
と、
1800年ぶりに帰還したユダヤの文化
この2つの民俗・文化が対立し、暴動となってしまいました。これが現代まで続いているパレスチナ問題の発端とされています。
20世紀 ドイツとユダヤ人
1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を握るとドイツにおいてユダヤ人迫害政策は公的なものとなりさまざまな扱いで圧迫されるようになりました。
1939年に第二次世界大戦が勃発するとナチスは占領地域におけるユダヤ人の隔離を開始し、ソ連はユダヤ人難民のユダヤ自治区への流入を禁止しました。
1940年にナチスは当初隔離したユダヤ人をマダガスカル島などに追放する計画を立てていましたが、その後絶滅収容所への収容・絶滅計画(ホロコースト)に方針を切り替えました。
戦後 パレスチナとユダヤ人
1945年、第二次世界大戦後にユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)の実態が世界に伝わると、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設するという運動が盛んになり、パレスチナに帰還したユダヤ人と、それまでパレスチナに住んでいたアラブ人との対立が一層激しくなりました。
1947年からパレスチナ内戦が始まり、1948年5月にはイスラエル国建国のイスラエル独立宣言(ユダヤ人国家の建国宣言)が行われ、翌日から第一次中東戦争が始まりました。
1956年に第二次中東戦争、1967年に第三次中東戦争、1973には年第四次中東戦争が勃発し、世界でオイルショックが起こる背景にもなっています。
この戦争が今でも続くパレスチナ問題となっています。
長い歴史の中で世界へ離散し迫害を受け、
悲願の思いで手に届きそうなイスラエルの建国を望むユダヤ人。
一方、
1800年ぶりに帰還した多くのユダヤ人によってイスラエル国を建国され、
故郷を追い出されたパレスチナ人。
そしてまた、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教の聖地ともなっているので、聖地エルサレムをどの宗教派閥が納めるかも大きな論点になっています。
絶滅政策
20世紀にドイツで行われたホロコースト(Holocaust)とは、ナチスがユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺を指します。
ナチスでは「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し強制収容所へと送りました。
収容所では過労死するまで強制労働を課し、また絶滅収容所では銃殺、人体実験、ガス室などの殺害も行われ、やがて組織的殺戮へと殺害手段がエスカレートしました。
約4年間でポーランド在住のユダヤ人の約90%は殲滅されたそうです。
ホロコーストで犠牲となったユダヤ人だけではありませんでした。ジプシー、精神障害者、反社会分子、障害者、同性愛者、スラウ人などもホロコーストの犠牲者となっており、総犠牲者数は900万から1100万人かも知れないとも言われています。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所
アウシュヴィッツ強制収容所は、ナチス・ドイツが国家を挙げて推進したホロコーストの最大級の犠牲者を出した強制収容所になります。
その名前だけでも聞いた事がある方が多いのではないでしょうか。
アウシュヴィッツ強制収容所はポーランド南部のオシフィエンチム市郊外にあります。ポーランドの首都ワルシャワからのツアーもあるようです。
ここで何が起こった事実を知るため、また追悼するために年間約140万人もの人々が世界から訪れる「負の世界遺産」です。
筆者もポーランドへと行くときはアウシュヴィッツ強制収容所へも足を運んでみたいと思っています。
ベルリンのホロコースト記念碑
ドイツの首都ベルリンには、ホロコーストの最大600万人のユダヤ人犠牲者の追悼と記念の場所として、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑( Denkmal für die ermordeten Juden Europas)が、終戦および強制収容所解放60年目の2005年に設置されました。
約2万㎡の敷地に2710基の石碑がグリッド状に並ぶモニュメントを設計したのは、アメリカの建築家ピーター・アイゼンマン。
この石碑は、記念でも思い出でも懐古でもなく、忘れてはならない「死」の象徴としてデザインされました。
敷地の地下にはホロコーストに関する情報センターがあり、イスラエルの記念館ヤド・ヴァシェムが提供したホロコースト犠牲者の氏名や資料などが展示されています。
ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)
今日のまとめ
今回は迫害や虐殺の歴史がメインだったので重くて暗い話となってしまいました。
18〜20世紀のユダヤの話はドイツの地が中心になりましたが、オランダは全く関係してなかった訳ではありません。
来週はユダヤ人の大虐殺が起こっていた頃のオランダ史をアンネ・フランク一家の生涯を通して勉強したいと思います。