オランダの歴史において、貿易、科学、軍事、オランダ芸術が、世界中で最も賞賛された17世紀。この時代をオランダ黄金時代と呼ばれています。
オランダ黄金時代を中心として、オランダ人画家たち、オランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画は、様々なジャンルの絵画が制作されました。
それまでは歴史画(宗教画)や肖像画がもっとも人気があり、価値も高かったのですが、
農民の暮らしを描いた風俗画、風景画、海洋画、植物画、静物画などさまざまな専門分野に特化した絵画が描かれました。
フェルメール全作品がある美術館
オランダ黄金時代に活躍したオランダ画家Johannes Vermeer(ヨハネス・フェルメール)はバロック絵画を代表する画家の1人で、レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家です。
フェルメールは生涯で37点の作品を描いたと言われており、
故郷デルフトにあるフェルメール美術館(Vermeer Centrum Delft)には、
全作品(レプリカ)が展示されています。
<デルフトのフェルメール美術館>
10〜17時
€9.00
ミュージアムカード割引あり €7.00
Voldersgracht 21, 2611 EV Delft, オランダ
Vermeer Centrum Delft
フェルメールの生涯
逆玉の輿
17世紀の画家は決して裕福な暮らしではなく、副業をしていることが多い中、フェルメールは画家一筋で生計を立て生涯を終えています。
フェルメールの父は、バーとホテルを経営しており、借金があったそうです。
とても裕福とはいえない家庭だったフェルメールですが、
資産家の娘と結婚し奥さんの実家からの援助を受け、まさしく逆玉の輿へ大出世しています。
金よりも貴重なラピスラズリを常用
ラッキーチャンスを掴んだフェルメールは、作品にとても高価な顔料を使用していたことで知られています。
<フェルメール代表作:真珠の耳飾りの少女>
フェルメールの多くの作品に使われている鮮やかな青色はフェルメール・ブルーと呼ばれ、
鉱石ラピスラズリを原料にしたウルトラマリンブルー。
金よりも貴重であったラピスラズリは「星のきらめく天空の破片」と呼ばれています。
そんなラピスラズリを惜しげもなく使用したフェルメールの作品にはスポンサーもつきました。
スポンサーがついた事で絵だけに没頭したフェルメール。
じっくり時間をかけた丁寧な作品は、年間2〜3作という寡作でしたが、それでも生活できていたそうなので、作品1つで半年分の収入を優に稼いでいたことになります。
戦争によって富を失った晩年
フェルメールは画家組合で理事に就任していたこともあるほど、地位も名誉も得ていました。
画家として高い評価を受け、富と名声があった巨匠フェルメール画伯ですが、晩年は膨大な負債を抱えて死去しています。
1670年代から始まった第3次英蘭戦争によりオランダは荒れ果て、経済が低迷していきました。
スポンサー契約が終わり、奥さんの実家も経済状況が低迷し援助が一切なくなり、追い詰めるかのように絵画は1点も売れなくなります。
戦争により培ってきたもの全て消え果て、残ったのは膨大な借金のみとなりました。
1675年に43歳という若さで死去したフェルメール、死因は特定されていません。
フェルメールには11人の子供がいましたが、まだ8人が未成年だったようです。
フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産したそうです。
忘れられた画家の不朽の名作
生前は画家として高い評価を得ていたフェルメール。彼の作品は死後20年以上たった1696年の競売でも高値が付けられました。
しかしフェルメールの作品数はあまりにも少なかったため、18世紀に入るとフェルメールの名は急速に忘れられていきました。
再び脚光を浴びることとなったのは19世紀、1866年にフランス人研究家がフェルメールを題材とした論文を著したことで、「忘れられた画家」の発見として再びフェルメールの作品に脚光が当たり、今では世界的に有名なオランダを代表する画家となっています。
フェルメールの聖地に行ってみよう
フェルメールの故郷デルフトには、フェルメール美術館意外にもゆかりの地があります。
<名作「デルフトの眺望」(写真左)が描かれた場所(写真右側が現在)。>
「デルフトの眺望」は雲の色味に濃淡をつけ、遠近感を強調した技法が特徴的な作品です。
アドレス:Zuideinde通り、デルフト
<デルフトの風景が「小路」(写真左)、そのモデルになった場所(写真右側が現在)。>
小路が描かれた場所には、フェルメール風のウォールアートがペイントされています。
この「小路」と「デルフトの眺望」のみが現存している唯一の風景画となっています。
アドレス:Vlamingstraat 42, 2611 KX, デルフト