ダム広場のシンボルとなっている王宮(Koninklijk Paleis Amsterdam)が建設されたのは17世紀になります。
ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトが宮殿として使っていたこともある建物ですが、
驚く事に元々はアムステルダムの市庁舎として建設されています。
アムステルダム黄金期と市庁舎の建設
17世紀のアムステルダムは活気に溢れ、ヨーロッパ屈指の都市へと発展していました。
貿易により街は豊かになり、半世紀で人口は5倍にも増えたそうです。
急激に成長した都市を行政がコントロールするために必要な市庁舎として建てられた建物がダム広場にある王宮になります。

17世紀の建設中の市庁舎(左)とダム広場 <photo credit: wikipedia>
80年にもわたるスペインとの戦争が終戦を迎え、その記念碑の1つとして、有名建築家ヤコブ・ファン・カンペンの設計により、1648年から市庁舎建設が始まりました。
1655年7月29日にオフィシャルオープンした市庁舎は、
幅79m、高さ53mと大きな建築物で、その後200年間ヨーロッパ最大の建築物となりました。
海抜ゼロメートルのオランダの軟弱な地盤に、前例のない大規模建築物を建設するために、13659本の木杭が地中に打ちこまれ、頑丈な基礎が築かれています。
外壁や内装には海外からお取り寄せした膨大な量の砂岩や大理石が使用され、手の込んだ職人技の彫刻やインテリアが施され、アムステルダムの黄金期が象徴されるバブリーな建築物に仕上がっています。
基礎工事で1万本以上の杭が使われた異様な工事、巨大な建物、贅沢で優美な市庁舎は世界の第八不思議との異名がつけられるほど、莫大な費用によって建設されたそうです。
市庁舎から王宮へ昇格
1794年フランスがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊しました。
そして1808年4月20日にホラント王国となり、ナポレオンの弟のルイ・ボナパルトが王に即位しました。
ルイ・ボナパルトはホラント王国での住居を検索したところ、このアムステルダムの市庁舎が目にとまり、改装してしまいました。
150年間アムステルダム市民のための役所だった市庁舎は、ルイ・ボナパルトの一声で王宮へと生まれ変わりました。
床には重厚なカーペット、数々の装飾品、数百の椅子やテーブルが、ルイ・ボナパルト王のために製作されました。
ルイ・ボナパルトは国民にも配慮し国王としての責務を良心的に果たした、まともな王様だったそうですが、兄のナポレオンにより1810年には王座から退位させられてしまいました。
ホラント王国が消え、アムステルダムはフランス帝国の一部となり、王宮はナポレオンの別荘となりました。
1811年にナポレオンと妻マリーはアムステルダムに訪れ、このアムステルダムの王宮で一晩過ごしたそうです。
王宮へと生まれ変わってからたった2年で別荘という名の空き家へとなってしまいました。
御払い箱となった王宮
1813年にナポレオン皇帝が敗北すると、イギリスへと亡命していたウィレム王子が帰還し、フランス人がオランダから追放されました。
ウィレム王子は1815年にネーデルラント王国(現オランダ)の初代国王ウィレム1世に即位しています。
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ナポレオンの別荘とされていたアムステルダムの王宮は、ナポレオン皇帝が敗北したとともにアムステルダム市に返還されています。
アムステルダム市はウィレム1世に王宮に居住するように提案しましたが、政治の拠点がハーグへと移ったため、アムステルダムの王宮は年に数回利用する程度となり、ほとんど空き家状態が続きました。
1934年、アムステルダム市は王宮をオランダ国家に売却しています。
アムステルダムの王宮は公式行事のみに使用されていますが、今でもほとんど空き家です。
そのため、公式行事以外の日は博物館として一般開放されています。
ルイ・ボナパルトが王宮にしようと思ったのが理解できるほど煌びやかな建物は、とても市庁舎だったとは思えません。
それだけ黄金時代のオランダは栄えていたんだと歴史を感じます。
市庁舎として活気に溢れていた時代から、輝く王宮時代を経て、今では博物館としてゆったり老後を送っているかのような王宮です。
10〜17時(不定期休館)
€10.00
ミュージアムカード可
Dam, 1012 HG Amsterdam, オランダ
Koninklijk Paleis Amsterdam