ダム広場のシンボルとなっている王宮(Koninklijk Paleis Amsterdam)が建設されたのは17世紀です。
国王の宮殿ですが、歴代オランダ国王はこの宮殿に居住したことがありません。そして驚く事に元々はアムステルダムの市庁舎として建設された建物です。
アムステルダムの王宮の歴史
オランダ国王が居住したことがないのに王宮と呼ばれている歴史をまとめてみました。
オランダ黄金時代

De Dam in Amsterdam 1668
17世紀。
アムステルダムは活気に溢れヨーロッパ屈指の都市へと発展していました。貿易商により経済が潤い、街は豊かになり半世紀で人口は5倍にも増えたオランダの黄金時代でした。
急激に成長した都市を行政がコントロールするために必要な市庁舎として建てられた建物がダム広場にある王宮になります。
アムステルダム市庁舎の建設

17世紀の建設中の市庁舎(左)とダム広場 <photo credit: wikipedia>
80年にもわたるスペインとの戦争が終戦を迎え、その記念碑の1つとして有名建築家ヤコブ・ファン・カンペンの設計により、1648年から市庁舎建設が始まりました。
1655年7月29日にオフィシャルオープンした市庁舎は、幅79m、高さ53mと大きな建築物でその後200年間ヨーロッパ最大の建築物となりました。
海抜ゼロメートルのオランダの軟弱な地盤に、前例のない大規模建築物を建設するために13659本の木杭が地中に打ちこまれ頑丈な基礎が築かれています。
外壁や内装には海外からお取り寄せした膨大な量の砂岩や大理石が使用され、手の込んだ職人技の彫刻やインテリアが施され、アムステルダムの黄金期が象徴される豪華絢爛な建築物に仕上がっています。
1万本以上の杭が使われた異様な基礎工事、ヨーロッパ最大の建物、贅沢で優美な仕様の市庁舎は「世界の第八不思議」との異名がつけられるほど莫大な費用によって建設されたそうです。


市庁舎から王宮、そして別荘へ
1794年フランスがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊しました。
そして1808年4月20日にホラント王国となり、ナポレオンの弟のルイ・ボナパルトがホラント国王に即位します。
ルイ・ボナパルトはホラント王国での住居を検索したところ、このアムステルダムの市庁舎が目にとまり改装してしまいました。
150年間アムステルダム市民のための役所だった市庁舎は、ルイ・ボナパルトの一声で王宮へと生まれ変わりました。
床には重厚なカーペット、数々の装飾品、数百の椅子やテーブルが、ルイ・ボナパルト王のために製作されました。
ルイ・ボナパルトは国民にも配慮し国王としての責務を良心的に果たしたまともな王様だったそうですが、兄のナポレオンにより1810年には王座から退位させられてしまいました。
ホラント王国が消え、アムステルダムはフランス帝国の一部となり、王宮はナポレオンの別荘となりました。
1811年にナポレオンと妻マリーはアムステルダムに訪れ、このアムステルダムの別荘(王宮)で一晩過ごしたそうです。
王宮へと生まれ変わってからたった2年で別荘という名の空き家へとなってしまいました。
御払い箱となった王宮
1813年にナポレオン皇帝が敗北すると、イギリスへと亡命していたウィレム王子が帰還し、そしてフランス人がオランダから追放されました。
ウィレム王子は1815年にネーデルラント王国(現オランダ)の初代国王ウィレム1世に即位しています。

ナポレオンの別荘とされていたアムステルダムの王宮は、ナポレオン皇帝が敗北したとともにアムステルダム市に返還されています。
アムステルダム市はウィレム1世に王宮に居住するように提案しましたが、政治の拠点がハーグへと移ったため、アムステルダムの王宮は年に数回利用する程度となり、ほとんど空き家状態が続きました。
1934年にアムステルダム市は王宮をオランダ国家に売却しています。
アムステルダムの王宮は公式行事のみに使用されていますが、今でもほとんど空き家です。
そのため公式行事以外の日は博物館として一般開放されています。
王宮を見学
ルイ・ボナパルトが王宮にしようと思ったのが理解できるほど煌びやかな建物は、とても市庁舎だったとは思えません。
それだけ黄金時代のオランダは栄えていたんだと歴史を感じます。
市庁舎として活気に溢れていた時代から、輝く王宮時代を経て、今では博物館としてゆったり老後を送っているかのような王宮です。
10〜17時(不定期休館)
€10.00
ミュージアムカード可
Dam, 1012 HG Amsterdam, オランダ
Koninklijk Paleis Amsterdam


