デン・ハーグとロッテルダムの間にあるDelft(デルフト)には、オランダ最古の工科大学TUデルフト(デルフト工科大学)がある学生街という一面があります。
また伝統工芸ロイヤルデルフトの窯元があり、はたまたオランダ画家フェルメールの故郷でもあるため、人気の観光地にもなっています。
デルフトの歴史
デルフトは、掘られた水路を意味するdelven(デルフ)という言葉に由来しておりオランダ史上では最もよく知られている土地です。
中世初期まで田舎の村だったデルフトは13世紀から都市へと発展しました。
王家の住居と墓所
1572年、ネーデルラント連邦共和国時代(16世紀〜18世紀:現オランダ王国の前の時代)に、後の初代ネーデルラント連邦共和国国王となるオラニエ公ウィレム1世が居住した地がデルフトでした。
1584年、オラニエ公ウィレム1世が51歳の時に暗殺され、デルフトの地に埋葬されています。以来、オランダ王家オラニエ公一族は伝統的にデルフトに埋葬されるようになりました。
(ちなみにこの頃の日本は安土桃山時代。織田信長が暗殺された本能寺の変は1582年の出来事です。)
大災害
1654年10月12日に火薬店が出火し、約40トンの火薬が爆発する大事故がありました。
その被害は凄まじく、街の大部分が崩壊し、100人以上が死亡し、数千人が負傷したそうです。
オランダの厄年となった1672年にデルフトの経済は悪化し、政治の中心はデン・ハーグへ、貿易産業の中心がロッテルダムへと移行してゆきました。
ビール産業
中世期のデルフトではビール産業と織物産業が盛んでした。
しかしビール産業は綺麗な水を必要とし、織物産業は工場排水によって水質汚染を引き起こすため、相性がとても悪く、共存することができませんでした。
ビールは一般の人々にとって最高の飲み物と考えていたデルフトは、都市の発展を担うのはビール産業だと選択し、良質の水で地ビール生産を開始します。
ビール全盛期の1600年頃、デルフトには80箇所もの醸造所がありましたが、時代とともに減衰し、1922年には最後の醸造所が閉鎖してしまいました。
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しかし2011年以来、デルフト市が運営する醸造所De Koperen Katを稼働し、地ビールに新たな息吹をもたらそうと取り組んでいます。
デルフトでしか味わえないDe Koperen Katのビールも観光中に楽しんでみてください。
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ホームページでは瓶ビールのオンライン販売もしています。ネコをあしらった素敵なパッケージデザインは贈り物にもなります。オランダ、ベルギー、ドイツに配送してくれます。
営業時間:木21〜3時、金16〜21時、土日14〜20時
住所:Schieweg 15M, 2627 AN Delft, オランダ
URL:De Koperen Kat
デルフト散策
デルフトには歴史ある建物が数多く残されています。
旧教会
1325年から25年の歳月をかけて建設された旧教会(Oude Kerk)。高さ75メートルの塔は当時はこの地域で最も高い塔でした。
しかし塔を建てた場所は。もともとはお堀だったため地盤が緩く、建設当初から塔は傾いていました。傾きを補正しながら建設されたため、よく見ると塔は歪んでいるのがわかります。
ですが現在まで崩壊したことは一度もありません。時代ごとに補強と改修工事が施され、今でも立ち続けているオランダ版のピサの斜塔です。
ちなみにオランダ画家フェルメールは旧教会に埋葬されています。
新教会
旧教会が完成してから約1世紀。1496年に建てられた新教会(Nieuwe Kerk)は高さ108.75mの塔はオランダで2番目に高い教会の塔です。
鐘楼に登ることができ、天気が良い日はロッテルダムまで見えることも。
新教会の地下には歴代のオランダ王族が埋葬されています。
市庁舎
中央広場にある市庁舎(Stadhuis Delft)は1620年に建設されました。
オランダ画家フェルメールは新教会で洗礼を受け、ここ市庁舎で結婚式を挙げています。今でも市庁舎では結婚式を開くことができるようです。
街の至る所にデルフトブルーがあしらわれているので、街散策がとても楽しいデルフトです。
ロイヤルデルフト工房見学や、フェルメールの聖地見学などもあわせて観光してみましょう。